「新生存学」の構築を!ー漢方薬エキス散の処方についてー 王 瑞雲 Wang, Rui-Yun

 46年前、アルバイト先の病院で小太郎漢方製薬散のエキス散に出会って以来、私は西洋医学から次第に離れてしまいました。始めの内は点滴も採血もし、心電計も買い込んでの開業もしたのですが自己流ながら診療をするうちにどんどん西洋医学的な検査はしなくなりました。
 そしてこうして時間が経ってしまいますと薬そのものがうんと少なくなってしまい、行き着くところ「病人は自分で自分の身体に責任を取ればいいだけのことだ」という考えに至ったのです。
 つまり医療とは生きる上で大切ですが、「生きられる最低条件は何か?(為生存市中雑学論.2010年10月 Wang,Rui-Yun(王瑞雲)提論)」という思考の中では、ほんの一部分の問題でしかも手段にすぎないのです。生きるためには、昔から言われるように「医(衣)、食、住」の「確立と自立」が必要であり、私は更に「教と法」を加えているのです。医療の医は、言うまでもなく病人になる可能性がある人がその症状を治めることであり、これを他人にできる限り頼らないのが生きる力となるのだと分かったのです。
 「食」も同じで人は食べずには生きられませんし、そして他人に頼るほどに生きる力は弱くなります。また身体は食べ物の化身とも言われています。人は他の生命を頂戴して自分のエネルギーに作り替え、初めて生きる力となるのです。住は言うまでもなく、人の身の置き所ですし、これには5つの条件が付いています。
 
 地理的条件、化学的条件、放射能的条件、電磁波的条件、政治的条件です。詳しくは省きますが、とにかく身の置き所のちょっとした差が生死を分けます。
 さて、私が「何故『教と法』を生きる条件の中に加えたのか?」と言いますと、これは私の経験からです。「法」とは社会的には法律なのですが、これは一般庶民はタッチできません。
 もうお気づきと思うのですが、人は自由も平等も持っていないのです。持てないからこそ、憧れ、必死に自由になりたい、他の人々と同じに幸せに生きてゆきたいと願うのだと思います。考えてみれば人は生まれたのか?生まれたくないのか?選べることもなく、この世に生を受け、気づく頃にはすでに相当時間が経ってしまっているのです。人は無意識の中にもその生まれた場所の法という掟というカゴの中で精一杯生きようとする。それが「先天の気」であり、長ずるに従いどの人も「生まれた以上は生きていたい!」と願う「後天の気」が大きくなっていきます。どの人も生きるのに必死です。ともあれ運よく良い住環境で過ごすことができれば教育も受けられるのです。何故ならきちんと教育が受けられなかった人々は、この「人の世」ではとても生きるのが厳しくなるというのを多くの人々は知っています。そして教育を受けられるのか?受けられないのか?は、その子どもの家庭の経済力と大人達の利口さによるのです。
 さてこうして医療は生きられる条件の中で、ほんの一部分の問題だとお分かりと思います。そして日本では明治初頭の「医学は蘭学を採用する」ことで「医療」は西洋医学が本流となったのです。
 ですから西洋医学のみならず、東洋医学も学ぼうとされる方々は先見の明を持っておられることになります。
 今日東洋医学は目まぐるしい発展をしています。私が処方始めた47年前頃はまだ保険収載されていませんし、オール一点で保険請求せねばならず、今反省するとしたらアルバイト先の病院にご迷惑かけてしまったのだと分かります。その後保険収載されそうになったとき私は「ちょっと待ってください!」とお願いを書きました。多くの医師が漢方薬の「か」の字も知らないうちから処方許可を出すというのは「解剖を教えずにメスを持たせるのと同じ」と思えたからです。医学と医療は別物ですし鍵の原型である西洋医学の医療の知識にさらに東洋医学の医療という手段で鍵に刻みを入れる作業が必要となってきます。ところが、現場ではどんなことが起こっているのか?

(つづく)